遺品処理 大阪のほっとするお話
奥方や子供たちが江戸に人質に取られていたのは殿様たちだけで、下級武士は江戸勤番の時も妻子は国もとに残して単身赴任だ。
そういう境遇で、この一日に一日だけ出勤するという退屈きわまりないワークスタイルを強要されたのだ。
しかも、金はあまりない。
何をして暇をつぶすか。
女、しかもなるべくなら金を使わずにすむ、素人女性を探すくらいしかない。
そこで、江戸時代の性病の蔓延はほとんどが江戸勤番の田舎侍たちのせいだ、という社会通念ができあがってしまつれん。
まず、性病を諸国から江戸へ運びこんだのは、圧倒的に参勤交代の武士であったらしい。
なぜなら、武士は規則として妻の同伴が許されなかったから、道中筋はもちろんのこと、江戸へ着いてもさかんに遊里に出入りしたためだ。
お上りのきむらいを見たら梅毒と思え。
たぶん地方武士のあいだで猛威を奮ったであろう性病禍が、明治政府の下で設された軍隊に対しても、大きな警鐘を鳴らしたはずだ。
幕末維新の激動期に、幕府のお役人たちが「さあ大変だ。
薩長の田舎侍たちが大挙して江戸に攻めのぼってくる。
ぐずぐずしてると、連中のせいで江戸の善良な婦女子るあがみんな性病をうつされてしまう。
これは防波堤をつくら制なきゃ」という心境になったのも、分からないことではなむい。
幕府から政権を引き継いだ維新政府のお偉方たちも、自分のことは棚に上げてと言うべきか、身につまされてと言うべきか表現に迷うところだが、「開国によって、妻子を故国に残した外国人たちがどっと押し寄せてくる。
きあ、外国人専門の女郎屋をつくらなきゃ、日本女性の貞操と健康が危ない」という危機感を持ったに違いない。
その結果が、築地につくられて完全な失敗に終わった新島原遊郭だったわけだ。
最近、特に進歩的文化人たちのあいだで、オランダのワークシェアリング政策を高く評価する声が聞かれる。
だが、この人たちはたとえばワークシェアリング実施後、アムステルダムの飾り窓産業が急に繁盛するようになったとか、婚外出産や扶養能力を持たない親による出産が増えたとか、そういった思わぬ副次的作用の有無を検証してからワークシェアリング導入を主張しているのだろうか?もちろん、「飾り窓産業だって人間の基礎的な欲求に基づいた立派な経済行為だから、隆盛をきわめてもまったく問題はない、扶養能力なんか気にせずにどんどん子供も生めばいい」ということであれば、余計なお世話だろう。
だが、こういった問題はきれいごとですませる傾向の人たちだけに、ワークシェアリングで持て余した時間を、ふつうの庶民がどう使っているか確認してから議論をしているのかどうかが気がかりだ。
そして、二次大戦の敗北が決まった直後の一九四五年八月一八日から、大日本帝国の残務処理内閣がいちばん一生懸ゃったことが、アメリカをはじめとする占領軍向けの「進駐軍特殊慰安施設」の建設だったことは悪名高い。
八月一八日といえば、終戦を告げた玉音放送からたった三日だ。
この間に起きた社会的事件というと、根津組が新宿マーケットの開設を高らかに宣言したくらいのものだ。
日本の統治者のやることとしては、異常なくらい手回しがいい。
この時、日本に上陸したアメリカをはじめとする戦勝国の軍人兵士たちは、築地の外国人専門の遊郭に見向きもしなかった明治維新直後の外国人たちほど、お上品な連中ではなかった。
さすがに「お国のために」と思って志願した人は少なかったろうが、ほかには生きていく道を探せずに飛び込んだ、大部分が素人だった日本女性たちを、文字通り、ボロ雑巾のように使い捨てていった。
それにしても腹がたつのは、ここに引用するように「ダ叩おおンサー及び女事務員募集」というような、とんでもない大嘘をついて、この「世界最大の売春トラスト」は人身御供を駆り集めたという事実だ。
新日本女性に告ぐ!戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む!ダンサー及び女事務員募集。
年令十八歳以上二十五歳まで。
宿舎・被服・食料金部支給。
玄人女性の大半は、すぐに何をさせられるのか見破って、あまり応募せずに街角で娼婦をする道を選んだらしい。
都合の良いことばかりを集めた「正史」では見落とされがちだが、戦後日本の繁栄はこうした女性たちの文字どおりの人身御供の上に成立していることを忘れてしまってはいけないだろう。
自民党が選挙による政権交代などという、まどろっこしい方法ではなく、流血の暴力革や軍事クーデターで政権を追われる日が来たとしよう。
連中の置きみやげは、間違いなく公娼制度の復活だろう。
それはさておき、吉原、品川、千住のコマ刀所は、日常生活での移動はほとんど歩きだった江戸から明治中期までの庶民にとっては、ちょっと気合を入れなければ行けないような遠方にある遊郭だった。
どのぐらい気合を入れなければ行けないかというと、次に紹介する千住の遊女が客に出した手紙のとおりだ。
松浦静山の『甲子夜話』に、「千住の売女」が書いた手紙を知人から見せられたとして、その内容が紹介されている。
「莱の花も咲きみだれ、はりつも候て人も出、にぎやかに候、ちと御こし候へかし」「はりつ」とは、はりつけのことである。
菜の花が咲き、はりつけもあって、人出が多く賑やかですので、ぜひおいでくださいという、馴染みの客を誘う使りである。
菜の花とはりつけが並べられているのにも驚くが、はりつけの見物がてら遊女のもとへ戯れに行くという遊び方があったことにもびっくりする。
しかも賑わったらしい。
「きもい」「うざい」「なにげに」といった省略話法は江戸時代の遊女から連綿と伝わる古式ゆかしい伝統だったことが分かるのもおもしろいが、千住の遊郭というのは、とにかくそういうけばけばしい見せものでもなければ行けないような距離にあったわけだ。
ところが、根津の遊郭だけは日本橋あたりからぶらつと下駄履きで行けるところだったので、けつこう繁盛した。
あまりにも繁盛しすぎて、日本の未来を担う東京帝国大学の学生さんたちにはなはだ不都合な影響を及ぼすということになり、この根津の遊郭やそこで働いていた娼婦たちは何度も所払いをさせられる。
明治一年(一八八八年)には、二次大戦後「洲崎パラダイス」として勇名を馳せることになる東陽町のほうへ、本体は移転させられてしまった。
根津遊郭が洲崎に移転されることになったのは、東京帝国大学や一高等学校が近くにでき、風紀上よろしからずということからだった。
根津遊郭では明治十二年に、大松葉楼、大八幡楼などの大見世が中心となって、妓たちに読み書きや裁縫などを教える娼妓女学校を開設していたのだが、それも東京大学に追われて、消えてしまったのだった。
もう少し細かく事の顛末を追うと、こういうことになる。
もともと湯島のあたりにあった徳川幕府の蕃書調所が、るあ明治政府によって国立大学一号となるのは、恐ろしく早制くて明治二年(一八六九年)のことだった。
築地に海軍兵b学校が開設されたのと同じ年だから、維新政府の教育への働入れ込みかたが分かる。
そして明治一年にまず医学部が、同一七年には法理文の三学部が旧前田藩邸のあった本郷へ移転、同一九年の工学部新設と同時に帝国大学と改称された。
そこで、森まゆみが以下に描くような「問題」が生ずる。
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